【開催報告・伏見】『日本の歴史をよみなおす』(網野 善彦)|名古屋で朝活!!朝活@NGO
今月の伏見は『日本の歴史をよみなおす』が課題でした。今回もスタバにて7名で開催。
テクノロジーの面でも、社会の有りようについても、現代は「大きな歴史の転換期」と言うことに異論はないと思いますが、著者によれば、日本においては14世紀を境にすでに一度大転換期があった、と。「はじめに」で、本書の意義として、
いわば、現在の転換期と同じような大きな転換が南北朝動乱期、十四世紀におこったと考えられるので、この転換期の意味を現在の新しい転換期にあたってもう一度考え直してみることは、これからの人間の進む道を考えるうえでも、また日本の文化・社会の問題を考えるうえでも、なにか意味はあるのではないかと思うのです。
という一文でまとめてあります。
たとえば、「町・村」「仮名」「女流文学」などは
柳田国男さんが、すでに指摘していることですが、日本の村は、その四分の三ぐらいが室町時代に出発点を持っている。 この数字どおりかどうかは検討する必要がありますが、最近の考古学による発掘調査の成果を見ておりますと、たしかに、十四、五世紀以降の集落と、それ以前の集落や町のあり方には、非常に大きなちがいがあるようです。
さしあたり現在残っている文書の世界だけに限定してみますと、平仮名、片仮名、片仮名まじりの文書が出てくるのは、だいたい十世紀ぐらいからです。 それが、だいたい十三世紀後半ごろから、文書全体の二〇%ぐらいが平仮名、片仮名まじりの文書で占められるようになってきます。 南北朝期はそう変わりないのですが、室町時代--十五世紀になりますと、このパーセンテージは俄然はね上がり、50%から六〇~七〇%ぐらいまで仮名まじりの文書で占められるという状態になってきます。
そして最初の問題にもからみますが、こうした女流の文学が生まれたのは十四世紀までなのです。 室町時代以降、女性の日記はありますが、江戸時代までふくめて女性の文学といえるものは、おそらくないのではないかと思います。
とこんな感じ。
その後も貨幣や女性、差別についてなど、いわゆる権力者の歴史ではなく、社会の有りようの変化について論じられますが、中でも「海の交易」と「百姓≠農業」の展開がとても面白い。
実際、百姓は決して農民と同義ではなく、たくさんの非農業民--農業以外の生業に主としてたずさわる人びとをふくんでおり、そのことを考慮に入れてみると、これまでの常識とはまったく違った社会の実態が浮かび上がってきます。
柴草屋は廻船と商業を専業に営んでいる非常に豊かな人ですから、土地など持つ必要は毛頭ないわけです。 ところが、江戸時代の制度ではこうした人もふくめて、石高を持っていない人びとが、水呑、あるいは頭振に位置づけられていたことが、これで非常にはっきりわかりました。
日本列島の社会が、農民が人口の圧倒的多数をしめる農業社会であったという常識も、おのずと完全に覆るといわざるをえないわけです。
日本の農村の様子が、少し違って見えてきます。ご興味があればぜひ。