【開催報告・伏見】朝食読書会『善悪の彼岸』(F.ニーチェ) |名古屋で朝活!!朝活@NGO
筋道を立てた論文形式ではなく、詩のようなアフォリズムを使った独特の散文で、ある意味文学作品のような風味もあります。当時の常識を根底からひっくり返すようなニーチェの言葉、挑発するような問いかけや突き刺さるような力強さに溢れています。
管理人の読書メモ
P.108 多くの人と同じ意見をもちたいという悪趣味は、さっぱりと捨てるべきだ。
P.146 宗教は人間の心にさまざまな平安を与え、服従を高貴なものとし、同輩の者たちと比較して、大きな幸福と苦悩を与えてくれるものであり、日常のすべて、卑俗さのすべて、ほとんど禽獣のごとき魂の貧困のずべてを明朗にし、美化し、ある意味では正当化するための手段となるのである。
P.189 個人の狂気はかなり稀なものである。――しかし集団、党派、民族、時代となると、狂っているのがつねなのだ。
P.195 結局のところ人が愛するのは自分の欲望であって、欲望された対象ではないのである。
P.232 現在のヨーロッパの家畜的な人間たちは、人間に許された唯一のありかたであるようにふるまい、みずから従順で、おとなしく、家畜として役立つものになろうとする自分たちの特性こそが、ほんとうの意味で人間らしい美徳であると称揚するのである。こうした美徳とは、公共心、親切心、配慮、勤勉、節度、謙譲、寛容、同情などである。
P.299 道徳的な判断を下すこと、判決を下すこと、これは精神的な狭さをもつ人間が、そうでない人々に加える復讐、お気に入りの復讐である。
P.401 「搾取」というのは、退廃した社会や不完全で素朴な社会においておこなわれるのではない。それは有機体の根本的な機能であり、生の本質そのものである。ほんらいの力への意志から生まれたもの、生の意志そのものなのである。
P.453 他人を称賛しようとした場合に、その人と意見が一致しないところだけを称賛しようとするのは、繊細で、高貴な自己抑制と言えるだろう。そうではなく意見が一致するところを称賛するというのは、自己を称賛するのと同じことであり、これは良き趣味に反するというものだ。
感想など
時代の変わり目ともなるパラダイムチェンジを起こした人、ニーチェは間違いなくその一人だと思います。
哲学者にとって真理を追究することは、いかにキリスト教的な制約の中で独断論に陥ったことなのか。ニーチェの主張を受け容れる土壌はなかったでしょう。1886年に自費出版された当時は、一年かけても100部ほどしか売れなかったことが光文社古典新訳文庫の年表に紹介されています。親切や節度、同情などを美徳と見なす人を「家畜的な人間たち」と言ってしまえば、それを聞いた人の拒否反応は眼に浮かびます。
P.232 現在のヨーロッパの家畜的な人間たちは、人間に許された唯一のありかたであるようにふるまい、みずから従順で、おとなしく、家畜として役立つものになろうとする自分たちの特性こそが、ほんとうの意味で人間らしい美徳であると称揚するのである。こうした美徳とは、公共心、親切心、配慮、勤勉、節度、謙譲、寛容、同情などである。
何が善で何が悪なのか、その根拠は何なのかを、ゼロベースで考え抜いたニーチェの思想は、当時の知識人はもちろん、一般の人に受け入れられることはありませんでした。文字通り「命を賭けて」書いたのが、本書をはじめとする著作の数々であったと思います。
時代も文化も違う現代の日本であっても、常識や思い込みから自由なひとはいません。キリスト教に覆われていたヨーロッパと同様に、日本人であるわれわれも日本語による情報や教育によって縛られています。言葉で考える限り、言語の縛りから逃れられる人はいません。人間社会から断絶して生きることも難しいでしょう。そういった意味でもニーチェは、どの時代のどの国でも今日的なテーマであり続けると思います。
今朝のディスカッションで「哲学は、考える力をつけるためのトレーニング」といった主旨の会話が印象的でしたが、ニーチェの思想こそ読み継がれる価値のある「問いかけ」なのではないでしょうか。難解には感じますが、「全部を理解しようとせず、どんどん読んでみる」というのも、いいアドバイスですね。時期をおいてもっと詩的な『ツァラトゥストラ』も課題にしてみたいです。
- 作者: フリードリヒ・W.ニーチェ,Friedrich Wilhelm Nietzsche,佐々木中
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2015/08/05
- メディア: 文庫
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