【開催報告・藤が丘】『祭りの場・ギヤマン ビードロ』(林 京子)|名古屋で朝活!!朝活@NGO
藤が丘の朝食読書会は日曜8時30分から。この8月の朝食読書会がちょうど100回目でした。課題本は、長崎の原爆で被爆した体験をもとにした『祭りの場・ギヤマン ビードロ』(林京子)でした。今回は4名で開催。
原爆については、テレビなどの映像、写真、または広島の原爆資料館などによって、誰もがある程度の知識はあるかと思います。
前半の『祭りの場』は1975年の群像新人賞と芥川賞を受賞した、長崎の原爆の日を中心にした3つの短編小説。『ギヤマン ビードロ』は、被爆した林京子さんその人が体験した過去と現在を行き来するエッセイ集。どちらも中心にあるのは原爆投下後の悲惨なナガサキの描写と、原爆症の不安につきまとわれるその後の人生。
《A課の塀からのぞいた原っぱの惨状は、漫画怪獣の群だった。被爆者は肉のつららを全身にたれさげて、原っぱに立っていた》
《人間にハエがたかる。うじ虫がわき人間をつつく。》
淡々とした筆致だけれども、ダイレクトに映像が浮かぶ描写。ある意味、映像や写真では伝わらない温度、臭い、気持ちが生々しく感じられます。
個人的には『祭りの場』の中の『二人の墓標』が特に印象的に残りました。仲の良かった2人の14歳の少女が三菱の兵器工場で被爆。一人は窓際にいたため、やけどとともに背中中にガラス片が刺さる重傷、一人は奇跡的に軽傷です。なんとか二人で山まで逃げるのですが・・・。
生き残ったものは、死んだものを見捨てた自責の念にかられ、しかも自分も原爆症に苦しみ、長くは生きられないかもしれないという恐怖がつきまとう。自分の子どもや孫が発症するリスクも高い。
《被爆者一代で終る不幸なら、私は身の不幸だとあきらめる。しかしあの閃光は人間の遺伝因子を奇形にして二世、三世にまで不幸を及ぼす。》
フランクルの『夜と霧』の序文に「知ることは超えることである」という言葉があります。本作の意味もそういったところにあるのかと。
重いテーマなのですが、特殊な歴史の特殊な人たちでは済まされない普遍性があります。「知ることは超えること」ですから。