【開催報告・栄】朝食読書会『「空気」の研究』(山本七平) |名古屋で朝活!!朝活@NGO
今月の栄は、藤が丘と同様『「空気」の研究』が課題でした。今回もいろいろな感想とともに、皆さんの視点、捉え方が面白い読書会でした。
管理人の読書メモ
P.15 採否は「空気」が決める。従って「空気だ」と言われて拒否された場合、こちらにはもう反論の方法はない。人は、空気を相手に議論するわけにはいかないからである。
P.16 大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確な根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら「空気」なのである。
P.51 たとえば、一人の人を、「善悪という対立概念」で把握するということと、人間を善玉・悪玉に分け、ある人間には「自己のうちなる善という概念」を乗り移らせてこれを「善」と把握し、別の人間には「自己の内なる悪」という概念を乗り移らせてこれを「悪」と把握することとは、一見似ているように見えるが、全く別の把握の仕方である。
P.69 (一神教の世界では)「絶対」といえる対象は一神だけだから、他のすべては徹底的に相対化され、すべては、対立概念で把握しなければ罪なのである。
P.91 ある一言が「水を差す」と、一瞬にしてその場の「空気」が崩壊するわけだが、その場合の「水」は通常、最も具体的な目前の障害を意味し、それを口にすることによって、即座に人びとを現実に引きもどすことを意味している。
P.170 戦後の一時期われわれが盛んに口にした「自由」とは何であったかを、すでに推察されたことと思う。それは「水を差す自由」の意味であり、これがなかったために、日本はあの破滅を招いたという反省である。
感想など
今月もマンガを描いていただきました。読書のまとめ方としても上手い!ありがとうございます!
「空気を読む」ということは、他人の気持ちを察するという意味でとても大切なこと。客観的な事実を理解するということも一方で大事なことで、自分の中でどう消化、判断するのか。
本書を読むと、日本人は議論なり世論なりの中で「空気」に支配されることが多いように感じました。「忖度(そんたく)」は身の回りでもよく見るのでは。また、積極的に「空気を読む」というよりも、判断を放棄した「空気に流される」ことの方が多いような気も。
「空気」自体は、良くも悪くもあるものであって、それにどう自分として関わっていくのか、いろんな場面で読書会を思い出しながら考えてみたいと思います。