【開催報告】『ボクの音楽武者修行』(小澤征爾) |名古屋で朝活!!朝活@NGO
今月の伏見は、世界で活躍する指揮者小澤征爾が、まだ駆け出しの26歳の頃(1961年)に書いた『ボクの音楽武者修行』が課題でした。
まったく知らなかったものを知る、見る、ということは、実に妙な感じがするもので、ぼくはそのたびにシリと背中の間の所がゾクゾクしちまう。日本を出てから帰ってくるまで、二年余り、いくつかのゾクゾクに出会った。(本書冒頭)
クラシック音楽論を期待するといい意味で裏切られる痛快な冒険譚です。
管理人の読書メモ
P.58 何より、柔軟で鋭敏で、しかもエネルギッシュな体を作っておくこと。また音楽家になるよりスポーツマンになるようなつもりで、スコアに向かうこと。それが、指揮をする動作を作り、これが言葉以上に的確にオーケストラの人たちに通じるのだ。
P.66 その(斉藤秀雄先生の)指揮上のテクニックはまったく尊いもので、一口に言えば、指揮をしながらいつでも自分の力を自分でコントロールすることができることを教わったわけだ。言い方を変えれば、自分の体から力を抜くということが、いつでも可能になるということなのだ。
P.100 いってみれば神様のためにだけある音楽――そのためならば、たとえどんな演奏でも、ヘンデルは限りなく美しいということだ。神様に感謝する気持ちがヘンデルを弾かせているのであって、問題は音楽する人の心にあり、技術の上手下手ではない。その心が人をうつのだ。
P.156 日本のクラシック愛好家は狭い観念にとらわれている。ジャズ喫茶と日比谷公会堂とはまるで無関係な存在になっている。(中略)古い日本と新しい日本がいつも敵視し合って生きているような感じを受ける。それがどれほど新しい日本の成長をさまたげていることか。
P.166 またシベリウスやブルックナーのように、今まであまり日本人には縁のない作曲家のものと取り組む時にはその作曲家の伝記を読むといい。なお、ひまと金があれば、その人の生まれた国、育った町をぶらつくのがいい。そうして音楽以前のものに直接触れて来いと(カラヤンは)説いた。
P.211 ところがアメリカも日本も、その(クラシック音楽の)古い伝統をもっていないからなんでもできる。あるいは自分たちでこれからなにかつくりあげていこうという意欲があるために、そういう新しい意味での発展性、可能性というものをもっているんじゃないかとぼくは思う。
飛行機でも客船でもなく、一人貨物船に乗り込み2か月かけてヨーロッパを目指し、上陸してからはスクーターでパリに向かった武者修行、まさに冒険の書です。クラシック音楽に馴染みのない方でも、この本を読むととにかく元気が湧いてくるのでは。当時としても、こういうやり方でパリを目指した人は他にいないでしょう。
しかも2年の間に、バーンスタイン、ミュンシュ、カラヤンといった最高峰の指揮者に直接教えを受けるという、考えられないような運も彼流の飛び込み方で掴んでいきます。彼の行動力とドラマ以上の展開に引き込まれてしまいます。
P.229 ふりかえってみると、そのさきどうなるかという見通しがなく、その場その場でふりかかってきたことを、精一杯やって、自分にできるかぎりのいい音楽をすることによって、いろんなことがなんとか運んできた。これからあと5年先、10年先にどうなっているかということは予測がつかないけれどただ願っていることはいい音楽を精一杯作りたいということだけだ。
飾らない言葉、喜怒哀楽を隠さない率直さ、真摯な音楽への追求心、面白いです。
少し前に、村上春樹との対談本が出版されましたが、50年たっても全く印象が変わっていません。それも素晴らしいですね。